まいまいツアー忘備録 #2 奈良公園(猿沢〜興福寺)
ツアー費高いなぁどうしようかなぁと思いながら抽選予約した結果当たってしまいました。前年秋に参加したツアーで価値の高さは知っているし、大好きな東大寺。せっかくなので崖長の世界へダイブ。初参加の上町台地編は未記録です。。
参加費用についてはユニバに入場してパークレストランで食事すること思ったら経験値が桁違いだと友達と納得し合いました。(比較対象どうなん?)
記録者(自分)について
・歴史、文化、建築好きだが没頭しているわけではない。
・受験世界史Bを選択、日本史は苦手。大河ドラマで偏った知識。
・文学部に潜り込み日本美術史講義を履修、仏像の種類や違いはぼんやり知ってる。
・建築好きのパートナーの影響で日本の建築様式はぼんやりと頭に入っている。
古代奈良のメインストリートを感じよう
近鉄奈良駅に集合。
スタート早々観光客が歩くメインロード登大路には行かず、
近鉄の南側のアーケードや昔ながらのショッピング街をぶらぶら南下。
古代の中心地街と古代のメインストリートを感じるところがツアーの導入。
↓東向商店街から東をみると興福寺境内への高低差が目前。
今でこそ近鉄奈良駅前から東大寺へ向かう道路がメインストリートのようになっているが、東向商店街を抜けてJRの駅前から東西に走る三条通=暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)が古代のメインストリートであった。
暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)は、大坂(難波)から生駒山地の暗峠を越えて奈良(平城京)に至る街道であり、奈良街道、伊勢参宮街道の一つである。奈良側の呼び名は暗越大坂街道である[1]。
●餅飯殿センターアーケードに入り低地を目指す
ここがここいら一体で一番低いポイントに着いた。
なぜ低いか?それは猿沢川が作った谷だから。
上の写真から回れ右をして餅飯殿アーケードから暗渠を辿って猿沢池(東)に向かう。
ちなみにもと川だった場所は地面が安定していないため土地が安いからか、
若者主体のサブカルな町として栄える傾向にあるらしい。
暗渠道を抜けて整備された空間へ。
興福寺 南大門・中金堂
興福寺の本当の形をいにしえの興福寺観光マップを見ながら観察。
建築の形はどのように使うかで見れば理解が深まる!
覚えるのが勉強ではない、実際に見て触れて思うことが学びである
土壁をなくし民へ開かれた空間
南大門跡と舞台の使い方とは?
中金堂の前の広いスペースに注目。日本建築史における「庭」とは?
●舞台の用途
登りにくい階段を登って南大門跡の上へ
●中金堂
●仏閣建築における「庭」「回廊」の本来の用途
いわゆる庭園(Garden)や通路ではない。
●なぜ五重塔の対の場所に南円堂が建っているのか?
興福寺の西側エリアの用途とは?→パトロンだった藤原氏を祀る私的なエリア。
藤原氏のあたりは疎く。苦手です...
興福寺 東金堂
中金堂の東側にある金堂で、東金堂と呼ばれる西向きのお堂です。神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って建立されました。創建当初は床や須弥壇などに緑色のタイル(緑釉塼/りょくゆうせん)が敷きつめられ、薬師如来の東方瑠璃光浄土の世界が表されていたと言われています。
その後5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415)に再建されました。前面を吹き放しとした寄棟造で、組物である三手先斗栱(みてさきときょう)が多用されるなど、創建当初の奈良時代の雰囲気を色濃く伝えます。堂内は室町時代に造立された本尊薬師如来坐像を中心に、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)立像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)坐像、維摩居士(ゆいまこじ)坐像、十二神将立像、四天王立像などを安置しています。
●建築について
天井を支える仕組み 格子天井
身舎と庇 空間の意味と用途 四間 中金堂との違い
飾り裳階
●仏像について
造り方が違うと見た目のスタイルも変わる 目で見て感じてみよう
参照:東金堂の文化財 https://www.kohfukuji.com/property_category02/tokondo/
移動
●五重塔と大湯屋
建物を強化するための仕様の変遷
扉を吊るし縦柱を囲み補強する長押と建材同士を組み合わせる貫
横が目立つ?縦が目立つ?見た目の違い
→ハイブリット建築「法華堂」に展開
五重塔〜大湯屋までの道の左右にあるこんもりした丘は実は全て古代のゴミ山。
瓦がたくさん埋まっている。
平城京のエリアはどこまでか体感してみよう
興福寺と春日大社との関係
国立博物館の方へ移動
●春日大社の西塔跡と東塔跡の礎石範囲の大きさが違う件
東大寺編へ続く